吹田操車場を超特急が走るマルチバース

私の鉄道を語りたい

今回のお散歩は、前回のゴール地点である千里丘駅に再び降り立つところから始まる。線路に沿って敷かれたアスファルトを踏み締めながら、目指すは吹田駅。距離にして約4.5kmの徒歩旅だ。

吹田操車場を上書きする健都

千里丘駅

千里丘駅の改札を出て右へ、西側の線路沿いを進む。今回のお散歩における目的の一つは、JR貨物の吹田貨物ターミナル駅を現地で眺めること。そして貨物ターミナルに沿って歩くとき、絶対に通らねばならないのが「健都(けんと)」だ。

「北大阪健康医療都市」の略称である健都。その名の通り、健康と医療をコンセプトに吹田市と摂津市が共同で開発した新しい都市である。吹田市立病院や国立循環器病研究センターをはじめ、最先端の研究施設、商業施設、そして整然と並ぶ高層住宅群が、JR京都線の線路に沿って千里丘〜岸辺〜吹田間に帯状に横たわっている。

これほど広大な土地がなぜこれほど美しく一画に収まっているのか。そこはかつて東洋一の規模を誇り、日本の物流の心臓として機能していた「吹田操車場」の広大な跡地であったからだ。土地の半分は梅田貨物駅の意思を受け継いだ「吹田貨物ターミナル駅」に、もう半分は「健都」として生まれ変わったのが、ここ20年での出来事。無数の線路が地平を埋め尽くしていたあの場所に、全く新しい別世界が形成されているのだ。

2016年頃から段階的に完成し始めたこの街。当時、大学生だった私は少しずつ吹田の地から足が遠のき始めていた時期で、このエリアの劇的な変化をリアルタイムでは追えていなかった。傍らを走る産業道路を車で通過することはあっても、健都の内部にしっかりと足を踏み入れるのはこれが初めてのことだった。記憶をどれだけ手繰り寄せても、社会人になって一度だけ、終電を逃して阪急正雀駅からなんとか帰宅しようとした際、この健都のロータリーでタクシーを拾ったかすかな思い出があるくらいだ。

岸辺駅の南北自由通路から吹田方面を望む

まず私を深く感動させたのは、線路に完全に並行する形でどこまでも伸びる「緑の遊歩道」の存在だった。道沿いにはバリエーション豊かな桜の木がずらりと植えられており、品種ごとの開花時期をずらすことで春を長く楽しめる設計になっているらしい。私が訪れた季節はすでに瑞々しい深緑に包まれていたが、その青葉が天を覆う蓋となってくれたおかげで、歩道のほとんどが涼しい日陰に保たれていた。日傘を広げる必要もなく、ただ風だけが通り抜ける圧倒的に心地よい空間がそこにはあった。

その合理的な心地よさを証明するように、遊歩道ではウォーキングやランニングに汗を流す地元住民の姿が絶えない。インフラの傍らにこれほど理想的な動線が用意されているのは、どこか羨ましくもある。

もちろん左に目をやれば、JR貨物の吹田貨物ターミナル駅がどこまでも広がっている。さすが関西の貨物輸送の要衝。貨物列車が何本も行き交う。歩いている間にも、長旅を終えて駅に停車した列車を1本、そして凄まじい力で構内を駆け抜けて通過していく列車を5〜6本は視認した。

特に京都方面へ向かって通過していく貨物列車は、遊歩道に最も近い外側の線路を走っていく。あの重厚な音と独特な鉄の匂いが、昔父親と貨物列車を見つめていた思い出とともに近づいてきて、記憶だけを残して過ぎ去っていくのは、実に味わい深い。

ちょうどターミナルへ停車した貨物列車

さらに公園が多いことも健都の魅力だ。美しく整備された芝生、綺麗な遊具や運動器具、ランニング用に舗装されたトラック、そして大きな屋根のあるベンチ。日曜日の朝というのもあって、子連れの家族と笑顔が満ち溢れている。さらにランニングやキャッチボールをする学生、散歩している老夫婦と、老若男女問わずあらゆる世代の居場所がこの公園群なのだ。

私はといえば、周囲のはしゃぐ子どもたちの手前、カメラを抱えて公園の遊具に飛び込むわけにもいかず、ただ遊歩道を大人しく歩くことしかできなかった。それでも、この場所が持つ圧倒的な優しさは肌で理解できた。

正直に言って、ここに住みたい。もう一度、吹田市民の籍に戻りこの街で暮らしたなら、と別の世界線を想像したくなるほどの美しき都市の品格が、そこには宿っていた。

大きな屋根の並ぶ健都の公園

ジャスコの記憶を復元する超特急

健都の遊歩道をさらに南下し、岸辺駅の南北自由通路の下をくぐって数分。やがて視界に現れたのが、今回の散歩のもう一つの目的地である「健都ライブラリー」だ。その名の通り、吹田市立図書館の分館として機能している。

近代的なデザインの図書館自体も十分に魅力的な構造物だが、今回どうしてもこの目で確かめたかったのは、この建物の外殻に組み込まれるようにして静態展示されている「0系新幹線」の先頭車両である。

健都ライブラリー、新幹線は右下に

0系新幹線。言わずと知れた、1964年の東海道新幹線開業時から日本の高度経済成長を文字通り牽引した伝説の車両だ。ここに保存されている22-7007車両は、2008年のさよなら運転の際に実際に使用された編成の、新大阪側の先頭車両という超メモリアルな代物である。

吹田市は公式に「鉄道のまち」を標榜しているものの、地理的には市内に新幹線が一歩も踏み入れない街である。にもかかわらず、この至宝を譲り受けることができた経緯には、かつて吹田操車場跡地に鉄道博物館を建設する壮大な計画が持ち上がっては頓挫した歴史があるらしい。2009年に譲渡されて以来、実に11年間もの間、この地で静かに放置されていたというドラマも含めて、この車両の質量感には重みがある。

そして今、その結晶がここに鎮座している。ガラス張りの巨大なショーケースに覆われているが、建物の入り口の横からであれば、ガラスを介さずにそのディテールを詳細に観察することが可能だ。

0系が停車中

肉眼でその姿を捉えた瞬間、思わず息を呑んだ。ただただ、かっこいい。

白く大きな顔で、中央の丸みが昭和の暖かな優しさも帯びつつ、角張った運転台の窓や重厚なスカートが、圧倒的なスピードを想起させる。強く、そして雄大。これが初代の貫禄か。
地元吹田の風景の中に、これほどかっこいい超特急が溶け込んでいる事実を前に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

私は現役時代の0系には乗ったことがない。実物をこの目で見るのは、おそらく人生で3回目だ。
最初に目にしたのは、かつて弁天町にあった交通科学博物館。ただし当時はあまりにも幼くて、あまり記憶にはない。2回目は京都鉄道博物館。プロムナードに4両並ぶ姿は圧巻だが、あそこにはあまりに多くのスター車両が並びすぎていて、情報のシャワーを浴びるうちに「数ある名車の中の1つ」として記号的に処理してしまった側面があった。それでも、私の記憶における0系は、長らくあの京都の鉄博だった。

しかしこの時、私の脳内でもう一つ、強烈な「0系の記憶」が蘇ってきた。それは2003年10月14日、私が5歳の秋の記憶だ。

その日は「プラレールの日」という記念日で、当時のトミーは毎年この日に全国のおもちゃ売り場で限定のプラレールを販売していた。そして2003年の限定品こそが、まさにこの0系だった。5歳だった私は、必死に覚え始めていたローマ字を駆使して自宅のパソコンでネットサーフィンをしており、当日の夕方、たまたまその限定品の存在を目にしてしまう。

近所の店が閉まるまでのタイムリミットが迫っていることに気づき、私は大慌てで母親のもとに駆け寄り、「ほしい!絶対にほしい!」と泣きついた。仕方がなかったのだろう。早めに夕食の支度を済ませてくれた母親は、私の小さな手を引いて、南千里のジャスコへと急行してくれた。自動車の光が無数に流れる新御堂筋を急ぎ、滑り込みでおもちゃ売り場の棚から掴み取った白いプラスチックの塊と、母親のぬくもり。今にして思えば、限定品とはいえ全国に流通していて1日限定ではなかったのかもしれないが、5歳の僕にとってはまさに世界を賭けた大レースだったのだ。

話を健都ライブラリーに戻そう。ここに鎮座するのはたった1両。だが、圧倒的な存在感はこの胸に刺さる。これがもし京都線の車窓から覗けるのならば良かったのだが、貨物ターミナル駅のビルに遮られてしまうのが少しだけ惜しい。この眺めは、吹田市に自らの足で踏み入れた者にのみ与えられる特権なのだ。

車両の側面には、プラットホームを模した通路が整備されている。設置された駅名標を覗き込むと、そこには「けんとらいぶらりー」という架空の駅名が刻まれていた。隣の駅は「すいた」と「きしべ」。在来線を0系新幹線が走るマルチバース世界の入り口が、このホームなのかもしれない。

知らない世界線の駅名標

このホームには、図書館内部から入ることができる。もちろん入場券は不要。カウンター横の扉を開けて一歩足を踏み入れれば、ホームドアもない新幹線のホーム。まるで昭和へと時間が巻き戻ったような錯覚に陥る。ホームの端から車両前方を見ると、まるで新大阪駅に0系が停車したよう。

とはいえ超特急が顔を向ける先には、市民が誇るメロード吹田が堂々とそびえ立っている。あの塔を見てしまったからには、いまは令和で、ここは吹田であることは間違いない。夢のような光景が現実に存在した時代を、自分の目でも見たかったものだ。

0系の向かう先にはメロード吹田

車両の裏側、妻面へと回ると、開放された貫通扉から車内へと足を踏み入れることができる。デッキの壁面に貼られた車両案内の上に、少し色褪せたさよなら運転時の張り紙が。この車両が本当に最後の瞬間まで東海道新幹線の過密ダイヤを走り抜いてきた戦士であることを静かに物語っていた。

さよなら運転の張り紙がある

車内は4列シートが並んでいるが、座席の半分は撤去済み。残る座席は先頭側のみだが、座ることまでは叶わないようだ。そして手前の、まるで新幹線の車内とは思えない広い空間は、展示スペースとして機能している。木のイーゼルが並んでいる光景もまた、本物の新幹線の中では見られない。

この展示スペースでは吹田操車場の歴史を、鳥観図や写真などが約10点の資料とともに紹介している。まさに図書館らしい使い方だ。
ある地図に目をやると、国鉄と交差する阪急千里線のラインは千里山駅までで打ち切られており、さらにその横には「北大阪電気鉄道」の文字が。つまりこの地図は大正時代に制作されたものなのだろう。その時点ですら国鉄は太い線をかたどり、この地図の中でひときわ輝いている。吹田操車場はもう産声をあげていたのだ。100年近く前から大量の鉄路を敷き詰めていたこの吹田の地、まさに「鉄道のまち」と自称するに相応しい。

展示車両の車内

私が0系に見惚れている間に、小さな子連れの家族が何組が足を踏み入れ、足早に去っていった。この子たちにとって0系は既に歴史の中に埋もれた鉄塊なのだろう。現役の新幹線ですら、私にとっての0系と変化していくのかもしれない。

健都ライブラリー。そこは、私にとって本当に特別な場所だった。新幹線の美しいフォルムを横目に、お気に入りの本に没頭できる空間が身近にある沿線住民が、少しだけ羨ましくなる。
私の記憶の中から復元された、5歳のあの夜のジャスコでの物語は、この散歩の記録とともに綴じて、m.p.noteという図書館の棚にそっと所蔵しておこう。

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